場所中は、『中日新聞』に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載している(系列紙の『東京新聞』には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した一番・力士に対する独自の解説や、相撲界への提言、優勝力士の予想など、幅広く執筆している。優勝力士予想については、千秋楽当日であっても当たらない場合がある。しかし、親方業の傍ら執筆しているので、自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞記者の記事とは違った魅力がある。近年は、力士の稽古不足、下半身の強化不足に警鐘を鳴らし続けている。
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日本相撲協会では、1994年(平成6年)武蔵川親方と共に役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身[4]であるため、理事に立候補することができないでいた。また1998年(平成10年)に弟弟子の八角親方が格上の監事に就任[5]したり、貴乃花が理事選に立候補をほのめかした際、「九重ですら理事になれないんだから、親方になったばかりの貴乃花に務まる訳がない」と順番を考慮する発言を誰もしなかったなど、彼の評価は現役時代に比べると低い。審判部長は理事が担当するため、古くから審判部副部長職にあるにもかかわらず、先代二子山、先代押尾川、放駒と3代続いて大関止まりの理事が九重親方を抑えて審判部長になっており、「副部長を務めている」というよりも「部長になれないでいる」という感が漂っていた。だが、2007年半ばより始まる朝青龍騒動や時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事だった高砂親方に代わって2008年2月から理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めている。審判部の職から離れた事でNHKの大相撲中継の解説者として登場できるようになり、2008年3月場所8日目で15年ぶりに正面解説席で解説をつとめた。
育成面では大関千代大海、元小結の千代天山などを育てているが、後が続かないでいる。ただし、大鵬以降の一代年寄で大関を育てたのは九重親方一人だけである。
強さなど [編集]
尊敬する力士は貴ノ花だったと言う。当時ヘビースモーカーだった千代の富士に貴ノ花は禁煙を勧め、千代の富士は禁煙を実施。これがきっかけで体重が増え後の横綱昇進に繋がっていく。(貴ノ花利彰を参照)
平幕時代苦手にしていたのが琴風。当時琴風の鋭い当たりと一機の出足に全く歯が立たなかったが、出稽古で克服し後に琴風をカモにする。ある日佐渡ヶ嶽部屋での三番稽古の際、琴風の右指が大きく裂けるという怪我をしている。琴風本人は裂けた瞬間全く気がつかなかったというエピソードがある。
隆の里については千代の富士曰く「裏の裏をかかれる」とのこと。大関から横綱にかけて8連敗するほど苦手にしていた。(隆の里俊英を参照)
小錦についても上述の1984年(昭和59年)9月場所の初対戦では完敗している。当時不振が続いていた千代の富士は目が覚めたかのように場所後小錦対策として高砂部屋に出稽古を開始。翌場所から対小錦戦8連勝を記録。この小錦の登場が千代の富士の復活~黄金期に繋がったと見るファンも多い。
横綱昇進後、同じ力士には滅多に連敗しないと言われたが、隆の里以外には小錦に1987年(昭和62年)1月場所~5月場所まで3連敗、また小錦が初優勝した1989年(平成元年)11月場所~1990年(平成2年)5月場所まで4連敗している。 1年通して不振だった1984年には朝潮には1月場所から4連敗。北天佑には1月場所から5連敗(不戦敗を含む)している。全盛期でもカモにしていた大乃国や若嶋津、当時小結の益荒雄に2連敗したことがある。さらに平幕だった安芸ノ島には1990年3月と5月に連敗2場所連続で同力士に金星を配給しているなど、歯車が狂った時は脆かった。
本場所負けた相手に対して、上述の琴風や小錦のように出稽古や巡業で相手の攻略法を見つけるほか、横綱になってからは若い力士に率先して稽古をつけていた。特に前場所負けた相手に対して巡業では積極的に稽古に狩り出した(安芸ノ島、琴錦、両国など)。ただ朝青龍と異なるのが、彼が前場所負けた相手を徹底的に叩きのめすことだけが目的だったのに対し、千代の富士の場合は、相手を徹底的にかわいがる事で自分の強さを見せ付けるほか、相手力士の育成もしっかり考えていた事は有名で、関係者から評価されている。
体格・素質で上回る力士との差を埋めるため、土俵上では凄まじい集中力を見せ、本場所で負けた相手に対しては相手の部屋に出向いて稽古、攻略法を身につける努力家。廻しを緩まぬようにきっちり巻くことにより、四つに組み相手の指が廻しにかかっても腰の一振りで払いのける、など体格差を感じさせない取り口で、全盛期に見せた相手の頭を押さえるような独特の上手投げは、「ウルフスペシャル」としてつとに知られた。鍛え抜かれた腕力を生かした廻しの引きつけには脅威的なものがあり、重い相手も腰を浮かせた。また、体の芯が異常に強く、常に軸がぶれずに堂々とした相撲を取った。
立合いの踏み込みの鋭さは歴代屈指のもので、短距離走のスタートにも例えられた。この鋭い立合いが、すぐに得意の左廻しを奪うこと、重みに優る相手にも当たり負けしない強さを可能にしていた。
優勝決定戦に出場した6回すべてで優勝している。北の湖との1回、北尾→双羽黒との2回は、千秋楽の本割に負けた後の再戦で、土壇場での強さを見せつけた。しかし、双羽黒の強さは認めており、不祥事による廃業に関しては、残念がっていた。決定戦での勝率ならびに決定戦での優勝回数はそれぞれ記録。弟弟子の北勝海との優勝決定戦の経験もある。
優勝回数31回、全勝優勝7回はそれぞれ最多を誇る大鵬に次ぐ記録であり、53連勝も昭和以降では双葉山に次ぐ第2位の記録である。また連続優勝5場所も歴代3位タイと堂々たる記録である。参考ながら、九州で行われる11月場所では、1981年(昭和56年)から1988年(昭和63年)までの8連覇を含め9度優勝している。夫人が九州出身であるため、「千代の富士にとって九州場所は地元のようなもの」とも言われた。また、両国国技館が開館した1985年(昭和60年)1月場所から1987年1月場所まで、同所で行われる本場所(毎年1月、5月、9月)に7連覇している。
休場明けの場所に強いことも特徴で、実に6度も休場明けの場所で優勝している。特に30代に入ってからが顕著で、休場の度に限界が囁かれながらも翌場所に優勝して不死鳥とも言われた。
前述の通り、高鐵山孝之進らに八百長相撲を指摘されているが、これは千代の富士が弱かったという意味ではない。実力があり、ガチンコで戦っても勝ち目が薄いと相手に思わせられたからこそ、相手の力士も礼金が貰える八百長に応じたという理屈である。板井圭介は「ガチンコで唯一かなわないと思ったのは大将(千代の富士)だけ」「八百長が無くてもガチンコでは大将が一番強かった」と語るほど千代の富士の強さを認めている。
出身地、卒業した小学校とも師匠千代の山と同じである。これは非常に珍しいケースであり他に例がない。故郷の福島町には横綱千代の山・千代の富士記念館がある。
晩成型で最年少記録の類とは無縁であるが、19歳で新十両、20歳で新入幕と出世は早く、新入幕からしばらくの間は「幕内経験をもつ最若年者」の地位を保っていた。
「入幕後、幕下まで陥落」「三役昇進後、十両まで陥落」という経験を併せて持つことは、後の大横綱としては極めて異例である。
脱臼癖に苦しめられてきた千代の富士であるが、一方では脱臼が大成の一助になったという見方もある。解説者の玉の海は、「若いころの千代の富士は軽量のくせに相手を引っ張り込んで、天井を向いて上手投げにいく「身の程知らずの相撲取り」であった」と語っている。そのような大きな相撲から、前廻しを引き、頭をつける体格にマッチした取り口に変わっていったのは、少しでも脱臼のリスクを軽減するためでもあった。この相撲が完全に身につき、大関・横綱に進むことが出来たことから、元横綱北の富士の前九重親方は「脱臼が千代の富士という大横綱を作った。前のままの相撲なら、陸奥嵐(元関脇)のような存在で終わったかも知れない」と語っている。また、千代の富士自身も「もう少し早く、この相撲の取り方に気付いていたら、もっと早く横綱になれていた。」と語っている。
略歴 [編集]
1970年 9月 - 本名である秋元という四股名で初土俵
1970年11月 - 四股名を大秋元に改名
1971年 1月 - 四股名を千代の冨士に改名
1974年 9月 - 幕下優勝
1974年11月 - 新十両、昭和30年代生まれで最初。因みに、のちにライバルとなる隆の里とは同時新十両である。
1975年 1月 - 四股名を千代の富士に改名
1975年 9月 - 新入幕、昭和30年代生まれで最初
1981年 1月 - 初の幕内最高優勝
1981年 3月 - 大関昇進
1981年 9月 - 横綱昇進
1988年11月 - 千秋楽、同年5月場所7日目から続いた連勝記録を大乃国に53で止められる。
1989年 3月 - 14日目に優勝を決めた一番で左肩を脱臼。千秋楽は不戦敗で表彰式に登場。片手で賜杯を受け取る。
1989年 9月 - 相撲界で初の国民栄誉賞を受賞、一代年寄授与も打診されるも辞退。
1990年 3月 - 7日目に花ノ国を下し、通算1,000勝達成
1991年 5月 - 3日目に貴闘力に敗れて現役引退、同時に年寄「陣幕」を襲名、以降後進の指導に当たる
1992年 4月 - 当時の九重親方と年寄名跡を交換、年寄「九重」を襲名して同時に九重部屋を継承。
1994年 2月 - 役員改選に伴い、役員待遇に抜擢され、審判部副部長を務める。
2008年 2月 - 役員改選に伴い、理事に昇格し、広報部長並びに指導普及部長として執行部入りする。
主な成績 [編集]
通算成績:1045勝437敗159休(通算勝ち星は歴代1位) 勝率.705
幕内成績:807勝253敗144休(幕内勝ち星は歴代1位) 勝率.761
横綱成績:625勝112敗137休(横綱勝ち星は歴代2位) 勝率.848
幕内最高優勝:31回(大鵬に次いで歴代2位)
幕内在位:81場所
横綱在位:59場所
連勝記録:53(1988年5月場所7日目~1988年11月場所14日目、双葉山に次いで歴代2位)
年間最多勝:1982年(74勝16敗)、1985年(80勝10敗)、1986年(68勝10敗12休)
三賞:殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞5回
金星:3個(三重ノ海2、若乃花1)
引退にまつわるエピソード [編集]
横綱昇進が決まった日の夜、師匠の九重(元横綱・北の富士)は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと、潔く辞めような。ちんたらチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士は、この言葉に面食らったという。しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉を守った潔いものとなった。これは栃木山から言われた言葉を栃錦が千代の山へ語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと言われている。
1991年5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わった弱冠18歳の貴花田と、大横綱千代の富士との初対戦であった。何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れ、その2日後に引退を表明。ある意味、自らの師匠が招いた引退とも言える。この取り組みは後に、漫画に描かれてもいる。
貴花田に敗れた時点で実は千代の富士は引退を決意していたが、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。まあ明日又がんばれよ」と言った。このために、千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまったので、引退表明が3日目の貴闘力戦に敗れた後になったという。その千代の富士からついに引退の決意を伝えられた時には、千代の富士も涙したが師匠の九重も思わず男泣きしたという。
千代の富士が引退した1991年5月14日は午前中に信楽高原鐵道列車正面衝突事故が発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュースを放送していた。しかし、夜になって千代の富士が引退会見を行うことになったため急遽ニュースを中断し、会見の生中継を行った。この際に最初は笑みを交えて「皆様、長い間応援して下さり、有り難う御座いました。月並みの引退ですが…」と語ったが、その後思わず言葉に詰まり目を赤くして、「体力の限界!気力も無くなり、引退することになりました…以上です」と振り絞るように言い放った。
翌7月場所前、千代の富士改め陣幕は自ら土俵に立ち若い力士に稽古をつけたが、あまりの充実ぶりに師匠の九重は「現役以上じゃないか。引退させるのは早かったな」と言ったという。「史上最強の新米親方」と評した人もいる。
引退相撲が行われた1992年2月1日は、TBSで放送され、最後の横綱土俵入りでは、露払いに旭富士、太刀持ちには弟弟子の北勝海の両横綱を従えた。大銀杏を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。
ロンドンにある蝋人形館、マダムタッソーでは最近まで千代の富士の蝋人形が置かれていた。ウルフと呼ばれていたことなどが記載されている。